2019年2月3日(日)
都から西国への大動脈であったという、備前国を横断する旧西国街道のうち、法界院から吉備津までの約19㎞を歩くというので参加しました。
このコースは、主に古代から中世にかけて利用されたコースだそうです。
我が家の学区でもあり、身近な土地を見直すきっかけにもなると思います。
7時45分、今日の出発地であるJR法界院駅に集合です。
よく利用している駅ですが、実は明治41年開業
駅舎は開業時のものを改造して利用しているのだそうです。
8時出発です。
線路を渡り、東に向かって進みます。
住宅の間をぬけ、三野浄水場の正門を通りすぎました。(8時25分)
ここからさらに西に向かい、旭川の土手に上がってきました。
この土手は、桜並木となっていて、春には桜の穴場スポットです。
正面の小高い山は標高80mの妙見山(三野公園)です。
西岸の「鑵子(かんす)の釣(つる)の渡し」に臨んでいます。
足利尊氏や豊臣秀吉(高松城水攻め)がこの渡しを通ったと伝えられているそうです。
ここから西に向かい、金剛山遍照寺法界院に到着です。(8時55分)
山門(仁王門)と本堂
半田山植物園の前を通り、「半田山大坂」の石柱が立っている交差点に到着です。(9時30分)
津山往来の半田山への登り口で、江戸期にはこの急坂の麓に茶屋があったそうです。
岡山大学の塀に沿って西に進み、津島小学校横の道を山越えします。都月坂と呼ばれ、古代から残る山越えの道です。
ここ半田山と烏山の鞍部となる峠には、都月坂1号墳があります。(10時20分着)
津高方面に下り、「ディオ」と「グランドマート」に分かれてトイレ休憩、
53号線バイパスをくぐり、笹が瀬川を渡って、
富原地区の道標にまでやってきました。(11時30分着)
西面には「二軒茶屋・かな川・津山道」と、北面には「下津井・かも方・金毘羅道」、南面には「萬延元年 申六月吉日」などが記されています。
民家の間をぬけ、散泊峠の「題目石」に到着です。
戦国時代にあった戦での戦死者を弔ったものだそうです。(11時40分着)
よく車で通るこの道、石碑があることに全く気が付いていなかったです。
佐山を通り抜け、「吉備SA下り線]で昼食タイムです。(12時10分~13時10分)このころから雨が降り出しました。
13時30分、「津高駅跡」に到着です。
古代山陽道に置かれた津高駅(うまや)は、交通路内の拠点で、役人用の馬が整備されていたそうです。
一帯が駅家郷(まやごう)といわれていました。
大覚堂(13時50分着)
お堂の中には、南北朝時代に辛川合戦での死者を弔うための題目石が安置されています。
境目・国境石柱「従是東備前國」(14時15分着)
備前備中の国境で、元禄12年(1699)建立の国境の標柱があります。
板倉宿の東の入り口にあたる「真金一里塚」(14時20分着)
山陽道の北側の塚に松、南側の塚に榎が植えられました。
さらに西に進み、14時35分、「板倉宿」に到着です。
江戸期、南の宮内の町とともに賑わい、宿数は70軒あったそうです。
板倉交差点は板倉宿の西橋で、「真金の十字路」として山陽道から松山往来や庭瀬への道が分岐するところです。(14時50分着)
「右松山江八里・足守江二里、西井山寶福寺二里半、南庭瀬江三十丁」と表す石の道標があります。
本日の最終目的地でもあります。
同じ道を引き返し、15時、吉備津駅にて解散しました。
古代から中世、近世に至るまで人々の流れなどに合わせて山陽道(西国街道)となって栄えていった道。
身近な場所で、歴史を振り返るよい機会となりました。