2006年8月11日(金)~17日(木) 関西空港発 阪急交通社「トラピックス」 利用
関西空港発が09:40と早い時間だったため、空港近くのホテルに前泊しました。
1日目
大韓航空便にて、関西空港を立ち、韓国・仁川国際空港を経由して、夕刻イタリア・ローマの空港に到着しました。
ローマ市内のホテルに宿泊します。
2日目
ローマ市内観光です。
最初に訪れたのはバチカン市国のサンピエトロ大聖堂です。
大聖堂の前にはサンピエトロ広場があり、この写真では右手、広場の中央にオベリスクが建っています。
広場で一番最初にできた建造物です。
また、この広場には17世紀の建築家ベルニーニが造った大きな楕円形の柱廊が広がっています。
その柱廊の後方の建物が、ミケランジェロの天井画「最後の審判」で知られる、システィーナ礼拝堂になります。
大きな楕円形の柱廊は4列のドーリア式円柱による列柱廊となっており、その上には140体の聖人像が立っています。
「サン・ピエトロ大聖堂」に入場します。
バチカン市国では、代々スイス人衛兵によってローマ法王庁の警備が行われています。
サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの総本山で、2代目にあたる現在の建物は、約120年の歳月をかけて1626年に完成しました。
大聖堂正面には5つの扉があります。
写真は大聖堂中央にあるフィラレーテの扉です。
15世紀に「旧コンスタンティヌスのバシリカ」から移設された、一番古い扉となります。
サン・ピエトロ大聖堂に入ってすぐ右側に、ミケランジェロが1498~1500年にかけて制作した「ピエタ」を確認することができます。
なお、「十字架にかけられたキリストのなきがらを聖母マリアが抱いている像」を「ピエタ」と言います。
大聖堂に入ったところから奥を眺めています。
大聖堂中央部の真東から真西の方向を見ていることになります。
美しい天井画を見上げます。
後方に見えるのは、祭壇の絵画「聖ヒエロニムスの聖体拝領」です。
中央に立つ「バルダッキーノ」と呼ばれるブロンズ製の天蓋は、バロック期の芸術家ベルニーニが手がけました。
広場の柱廊を造った人物と同一になります。
この天蓋は使徒ペテロが葬られている墓の上に鎮座し、高さは29mにおよびます。
バルダッキーノの真上には、ミケランジェロが考えたクーポラ(ドーム)がそびえています。
大聖堂を奥に進むと「 カテドラ・ペトリ(ペテロの司教座)」に突き当たります。
ペテロが用いたといわれる司教座は、教皇の権威を象徴するのごとく荘厳な雰囲気を醸し出しています。
大聖堂から広場に出ました。
写真は出口側の衛兵で、衛兵の制服はミケランジェロのデザインによるものです。
バチカン市国のスイス人衛兵は、美少年が選び抜かれて派遣されているようです。
大聖堂の観光を終え、バスは「コロッセオ」近くの駐車場に到着しました。
コロッセオのすぐ脇には「コンスタンティヌスの凱旋門」があります。
このように、コンスタンティヌスの凱旋門とコロッセオは隣接しています。
ツアーでのコロッセオの観光は、通常外観を見るだけの下車観光です。
平成9年にここを訪れた時も、今回もコロッセオへの入場はありませんでした。
続いて向かったのは「トレビの泉」です。
ローマにある噴水の中では最大で、人工の泉ではありますが、バロック建築の傑作といわれています。
三叉路という意味の「トリヴィオ」に位置することから、トレビの泉と呼ばれるようになりました。
「スペイン広場」です。間近にあるスペイン大使館にちなんで命名されました。
この後、昼から自由行動となったので、「パラティーノの丘」「フォノ・ロマーノ」「コロッセオ」辺りを気ままに散策してみました。
地下鉄でコロッセオ駅まで向かい、「パラティーノの丘」側のチケット売り場で共通チケットを購入しました。
共通チケットとは「フォロ・ロマーノ、パラティーノの丘、コロッセオ」の3施設が共通となった入場チケットです。
パラティーノの丘のチケット売り場は、コロッセオでの売り場に比べかなり空いているので、おすすめです。
入場口からパラティーノの丘を上っていきます。
丘を登っていくと、コロッセオが見えてきます。
さらに登っていくと丘の上に到達します。
北方面にはサン・ピエトロ大聖堂側が遠くに確認できます。
またフォロロマーノの景色が東方面、眼下に広がります。
ここからも、遠くにコロッセオが見えます。
ズームで撮影したコロッセオと手前の「ティトゥス帝の凱旋門」です。
この凱旋門はティトゥス帝がユダヤとの戦争の勝利記念して、西暦81年に建立されました。
フォロ・ロマーノ東側(コロッセオ側)全景です。おびただしいスケールの遺跡です。
この後、パラティーノの丘を下りコロッセオに向かいました。
「コロッセオ」です。
今まで内部に入場したことがありませんでしたので、初めて中を見学することになります。
ここは西暦80年に完成した、市民の娯楽施設(円形闘技場)です。
外観は4階建てで、4層の柱によって飾られています。
今では床が崩れ落ちてしまっていて、地下の様子まで確認することができます。
地下には剣闘士、囚人、猛獣が収容されていたようです。
観客収容人員は5万人以上を誇り、客席は身分や性別により分けられていました。
猛獣と剣闘士、剣闘士同志の戦いが見世物にされてきました。映画「グラディエーター」の世界です。
この後、コロッセオからフォロ・ロマーノへ移動しました。
「フォロ・ロマーノ」内の「マクセンティウス帝のバジリカ」です。
マクセンティウス帝の時代に建設を始め、コンスタンティヌス帝の時代にやっと完成しました。
壁の一部しか現存していませんが、当時は裁判や会議などに利用されていました。
フォロ・ロマーノ内を「カンピドリオの丘」方面に向かって進みました。
カンピドリオの丘からフォロ・ロマーノを見下ろします。
カメラでズームしてみました。
柱が見えますが、左が「 アントニヌスとファウスティーナの神殿」右が「カストルとポルックスの神殿」となります。
この後、カンピドリオの丘を下り、テヴェレ川方面に移動しました。
移動したテヴェレ川の近くに、「真実の口」があります。
観光客が大勢、記念撮影のための列を作っていました。
この後、チルコ・マッシモ(戦車競技場)跡を通り、チルコ・マッシモ駅より地下鉄でバスの集合場所に戻りました。
今夜は、市内のホテルに連泊します。
3日目
ローマ市内のホテルを朝出発し、ポンペイに向かいました。
ナポリ近郊にある「ポンペイ遺跡」は、古代ローマの都市と人々の日常生活をほぼ完全な姿で現在に伝える遺跡と言えます。
西暦79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山の大噴火によって、ポンペイの町は一瞬のうちに火山灰の下へと埋もれてしまいました。
ポンペイ遺跡に入場します。
マリーナ門を入ってすぐに右にある遺跡が「バジリカ」です。
バジリカは紀元前120年から西暦78年に建造された古い建築物です。
ポンペイの中心地だった「フォロ」です。
フォロはポンペイに限らず、古代ローマの街にあった多目的広場です。
入口から近く、またフォロ周辺に重要な遺跡が集中していることもあって、観光客の多いエリアです。
入り口近くに「アポロ神殿」がありました。フォロにも面しています。
フォロの北側、一等地の場所には「ユピテル神殿」が鎮座していました。
背景にベスビオ山が見えています。
「フロントーネの家」 の壁画です。
家の内部は美しい壁画で装飾されています。
また、手前にリアルな人体石膏像が置かれています。
人々は吹きつけたガスで窒息死し、その上に灰が降り積もりました。
「カリグラ門」です。
カリグラ帝の凱旋門で、煉瓦がむき出しになっていますが当時は大理石で覆われていました。
「牧神の家」です。
写真は、奥庭と中庭にはさまれたテラス部分にあるモザイク画(レプリカ)で、本物はナポリにあるそうです。
このモザイク画はアレキサンダー大王とペルシャ・ダレイオス3世のイッソスの戦い(紀元前333年)を描いたものです。
居酒屋(バール)です。
丸い穴の開いた部分には、ワイン壺が入れられていました。
「パン屋」です。
臼やオーブンは石でできているため焼け残り、パン屋だったことがわかりました。
「パン屋」の窯です。
商業が盛んで人通りも多いため、大きな通りは石で舗装されていました。
「穀物倉庫」です。
ポンペイ遺跡の観光を終え、バスに向かいます。
約330km離れたアルベロベッロに向けて出発しました。
長いバスでの移動が続き、夕方アルベロベッロのホテルに宿泊しました。
4日目
「アルベロベッロ」は「トゥルッリ」というとんがり屋根の建物が並び、世界遺産に指定されています。
ホテルは 市街に近いので、早朝散策してみることにしました。
陽が射してきて、空の青と白壁のコントラストが印象的です。
散策を終え、一端ホテルに戻りました。
朝、ホテルからバスに乗り、改めてアルベロベッロ市街に向かいました。
アルベロベッロの旧市街は2つの地区に分けることができます。
1つは今歩いている「アイア・ピッコラ地区」で、約400の「トゥルッリ」が集合しています。
今でもトゥルッリに暮らしている人も多く、静かな住宅街です。
広場からは、もう1つの地区である「リオーネ・モンティ地区」が見えます。
こちらは約1000ものトゥルッリが集まっており、みやげもの屋、カフェなどが連なっています。
そのため観光客でにぎわうのは、こちらのリオーネ・モンティ地区だと思われます。
とんがり屋根が連なる、おとぎの世界のような不思議な光景です。
トゥルッリの屋根は石造りで、コマをさかさまにしたようにも見えます。
また、屋根には魔除けの模様やラテン文字が描かれています。
リオーネ・モンティ地区です。道沿いにはレストランやみやげもの屋などが店を構えます。
この後、アルベロベッロを後にして、マテーラに向け出発しました。
バスに乗り、約1時間後「マテーラ」に到着しました。
約70kmの移動です。
世界遺産「マテーラ」は、岩山をくり抜いた洞窟住居群「サッシ」が残る町です。
イタリア語のサッソ「岩・岩石」の複数形が 「サッシ」という言葉になります。
展望台からは、斜面から重なり合うような住居群を一望し、先人たちの生活を偲ぶことができます。
サッシ地区は広大な谷に面しています。植物の気配はほとんどなく、荒涼としています。
サッシ地区の下方側も撮影してみました。
ごつごつとした岩肌が、谷から突き出ているような雰囲気でした。
「洞窟教会」です。
このような教会が、この地区のいたるところに点在しています。
もちろん、上の写真のように、洞窟でない教会もたくさん見かけました。
これらの教会は8~13世紀にかけて建立されたそうです。
マテーラの観光を終え、ナポリに向け出発しました。
夕刻、ナポリに到着しました。今夜は、ナポリ市内のホテルに宿泊します。
6日目
朝、市内サンタルチア港からカプリ島行のフェリーに乗船しました。
カプリ島へ到着後、島からは船(大きなボート)に乗り換えて「青の洞窟」のそばまで向かいます。
カプリ島の街が遠ざかっていきます。
洞窟の入り口近くまで、やってきました。
結構波が高いような気がして、洞窟の中に入れるのかどうか心配になりました。
入口の高さが1mほどの洞窟です。少しでも波がくれば入口は塞がれてしまいます。
2日前までは、船さえも出なかったそうです。
入場待ちの人は、船側ばかりではなく、島側からもたくさんいました。
写真でもわかるとおり、島側からも行列を作っています。
約1時間、海上でゆられる羽目になってしまいました。
2~3人乗りの手漕ぎボートに乗り換えて、やっと洞窟内に入ることができました。
洞窟内には4~5隻の手漕ぎボートが入っていました。この数が安全上の限界だと思われます。
あわてて、撮影したのでこんな写真しか撮れていません。
洞窟の中では、手漕ぎボートの船頭さんがイタリア民謡らしき歌を披露してくれました。
ただ、こちらは写真を撮ることだけに精一杯です。
それでも、幻想的なブルーの景観は十分伝わっているのではないでしょうか。
洞窟内には、3~4分入っていたと思います。
満足して、カプリ島の港に戻ることができました。
カプリ島の港に戻って、フリータイムとなりました。
カプリの港を一望できる高台まで徒歩で移動しました。
道中、いろいろな土産物店やレストランがあり、町には活気が溢れていました。
このあと、フェリーでナポリに戻りました。
ナポリでは市内の歴史地区観光です。
写真は、ナポリ湾に面して立つ城塞「カステル・ヌオヴォ(ヌオーヴォ城)」です。
陽が落ちかけている、ナポリ湾の西方面です。
「卵城」です。港から海上に向かって立つ城塞です。
この城は12世紀にノルマン王によって建てられた古城です。
「基礎に埋め込まれた卵が壊れると町も滅びる」という伝説が城名の由来となりました。
ベスビオ火山が間近に見えます。
サンタルチア港のマリーナからも、山をはっきりと臨むことができます。
「インマコラテッラ(無原罪の聖母)の噴水」です。
市内繁華街にある「ウンベルト1世のガッレリア」です。
プレビシート広場に面した「サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂」です。
広場から丘を見上げました。
同じく広場に面した 「ナポリの王宮」です。
遠くに「サンテルモ城」が見えます。ここからの市街の眺望は最高らしいです。
夕刻となり、市内のホテルに連泊しました。
6日目
朝、ナポリ市内のホテルを出発しました。
高台から眺めた、穏やかなナポリ湾の風景です。
ローマの空港に戻る途中、世界遺産「カゼルタの王宮」に立ち寄りました。
このきんきらきんは、以前訪れたことのある、サンクトペテルブルグのエカテリーナ宮殿を彷彿とさせるものがあります。
プレセピオ(キリスト誕生シーンの巨大ジオラマ)が展示されていました。
庭園側です。 その突端がよく確認できない庭園は、延々と3キロ先まで続いているそうです。
途中まで歩いてみましたが、集合時刻が近づいたので引き返しました。
このあと、カゼルタの王宮を後にしてローマの空港に向かいました。
夜、ローマの空港から大韓航空便で韓国・仁川国際空港に向け出発しました。
7日目
昼過ぎ仁川国際空港に到着し、5時間の乗り継ぎ待ちのあと、関西空港便で帰国しました。